2010.08.27
アントナン・カーレムはフランス菓子の歴史を作った料理人です。 カーレムはナポレオン帝政下の外務大臣のお抱えシェフでありました。
彼の素晴らしい料理と菓子は、味だけではなく、盛りつけに立体性を持たせ、皿の上での色合いやバランスに神経を注いだところに特徴があります。
現在、世界中で楽しまれている菓子は、彼のセンスによるものが多く、フランスのパティシエにとっては大切な歴史的人物とされています。
私も、アントナン・カーレムについてはとても興味があり、研究をしています。
まとめたものをここでご紹介したいと思います。
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アントナン・カーレム
19世紀のはじめから、料理の天才が現れた。 アントナン・カーレムがパティスリーを一変させた。 正式にはマリ=アントワン、通称アントナンは、おそらく1874年に生まれた。 王族の豪奢な料理の伝統とは無縁であった。 なぜなら貧しい家庭に生まれ、完全な独学者だったから。 父親が人夫をしていた資材置き場、パリのバック通り、セーヴル通りと交差するあたりで、アントナン・カーレムは24人の子供がいる家庭の長男として生まれた。 父親は多くの子供を養う経済力もなく、またお酒好きでお金を使い、前者に対する出費を減らそうとした。 アントナンは10歳の時に、捨て子にされた。 このため哀れな父親は、アントナンを現在のモンパルナスの駅近くに連れていった。 パリとの境にある柵の辺りにある居酒屋で少し時をすごしてから、父親は厳かに言った。
「息子よ、世間に出なさい、いい仕事があるよ、私たちはほっておいて、貧困が私たちの運命だ。 今は出世の時代だ。 そのためには、才気さえあればいいんだ。 おまえにはそれがある。 今晩か明日には、良いところがおまえを受け入れてくれるだろう。 神様がおまえに与えてくれたものを持って行きなさい。」
これで十分に親としての役割を果たしたと考え、父親はこの子を捨てたのであった。
飢えたこの子供は、Maine大通りの安食堂の主人に拾われ、この救いの神に、1,2年間給仕として使われた。 この郊外の家を出ると、Mauconseil通りがMondetour通りにぶつかるあたりの貧しいパティスリーの見習いになった。 才能があり、もうこれ以上そこで学ぶことがないと判断して、Vivienne通りにある、以前宮廷でパティシエを務めたバュイが開いた店を訪問した。 当時この店は、アヴィスという名高い職人がいることを誇りとしていた。 バュイはカレムを雇うかどうかを迷った、なぜなら才能、身元を保証するようなものを、ほとんどもっていなかったから。 アヴィスは、カレムの若い血色のいい顔立ちにひかれて、ヴュイに試用することを薦めた。 カレムは熱心さと知性によって、アヴィス、バュイ両者の友情を勝ち取る。 初めて1カ月たった時には、パイ生地づくりの2番手で、その少し後には、その責任者となった。
自由時間は帝国図書館で過ごし、建築の題材について勉強したり、デッサンをするのが好きであった。 こうして得た知識を、ピエスモンテをつくるのに使っていった。 彼の作品は大成功をおさめた。 庇護してくれたアヴィスは、大きな館で臨時の仕事がある時はカレムを連れて行き、それはさらに技術に磨きをかける機会となった。
続いて、ジャンドロンの店で短期間働いた後は、エキストラの仕事だけを行った。 そうすることによって当時の著名なシェフと知り合うことになった。 ブシェ、通称ブシュ=セシュとは外務大臣のタレイランの館で。 エリーゼ・ナポレオン宮殿ではラギピイエールと知り合った。 カレムは自分が影響を受けたシェフとしてミュラ、ラーヌ、フィショ、ピケット、トロトワ、コンスタン、ルコック、フェイエなどの名前を挙げている。 タレイランはすぐに若いカレムの才能を認め、1814年に訪問してきたロシアのアレキサンダー皇帝に紹介した。 その翌年再びパリに来た、このロシア皇帝が一番気にして要求したことは、前回の滞在中と同じシェフとのことであった。 タレイランはヴェルテュの平原で、連合国の王たちが将校のための祝宴を行ったときにも、カレムを起用することを提案した。 ある伝説は、愛国心からカレムは拒否したが、軍隊の力で、強制されてこの役を引き受けたと言っているが、本人はそんなことにまったくふれていないので、この伝説は、まったくの嘘と考えた方がよい。
この後のカレムの経歴は、栄光につつまれたものである。 このころの祝宴、夕食のテーブルで、優雅で豪華な彼の作品で飾られていないものは、まずなかった。 1816年には摂政を行っていたイギリス皇太子の調理場を指揮した。 イギリスの気候がたえられず、8ヶ月しか勤めなかった。 この主人は後にジョージ4世として王となり、再度の勤務を求めたが、カレムは拒否した。
エックス=ラ=シャペル会議では、ロシア皇帝の料理を指揮したが、宮廷における給仕長になることは拒否した。
次に、在ウィーンのイギリス大使であったスチュワード卿のもとで働き始め、霧に関わらず、卿がロンドンに帰国になった時も、仕事を続け、その後パリと、勤務を続けた。
1823年から1829年の時期は、ウェテンベルグ大公、バグラション大公妃、最後にロットシールド家に落ち着く。
テオドール・ド=バンヴィルは回顧録の中で、カレムがジュノ、アブラント侯爵などの所にいたと書いているが、おそらく臨時の仕事を引き受けただけであろう。
直感的に、カレムは19世紀に必要な変革を認めさせることに成功した。 しかし、人夫の息子であったこの人物の野望を満たすには、それだけでは十分ではなかった。 カレムは自分の名前を栄光で飾りたかった。 改善のために役立つものを収集するため、本をむさぼるように読み、そして博引傍証の本を出版した。 社交界に出ていき、すぐれた人の助言を求め、嫉妬や忘恩とは無縁で、仕事からできた付き合いをうまく利用した。 フランスが帝国であった時代には、ヨーロッパの政治を動かす政治家たちの集まりでは、「国家を動かす人物たちにおいしい料理をだすために」必ずカレムが呼ばれていた。 おそらく、おいしい食事の影響で、これらの政治家たちがとった決断は、よい方向に動かされたのではないだろうか? 正直で善良なカレムの友人の中には有名な医師たちがいて、栄養学について対話していた。 カレムは近代料理の衛生の面でも、最先端の考えを持っていた。
たゆまない仕事と病気がカレムの寿命を短くし、50歳に至らなかった。 しかし、彼の料理は19世紀のほぼ全体を支配した。 この天才の人生は創造の連続であり、近代のパティスリーの父と言える。 食いしん坊だったが、少食で、たまにしかお酒は飲まず、次のように言っている。
「自分の適性がわかったので、食べるために休んで、それをのがしたくなかった。」
カレムは11巻からなる大変重要な作品を出版し、今日でも偉大な料理人はこの作品を読んでいる。 彼の作品は、19世紀初めのフランス料理の完全な大観を与えてくれる。 彼より前の時代の人たちとの違いは、まずレシペの正確さ、細かい点の正確さ、それ以前はいい加減なものであった。
そして緻密な配慮、あるいは今日では幼稚にうつるかもしれないが、装飾、飾り、芸術的な組み立てである。 弟子であるプリュメレ、グフェ、デュグレレ、ウルバン・デュボワたちは単純化しながらも、この道を発展させていった。 第3共和国のはじめのころまで、ラードの台座、皿の縁(?)、蝋の花、パンの身を飾りに使い、カレムの豪勢な精神で、作業していた。 このことはド=ラ・レニエールの次の言葉を思わせる。
「フランスのデザートは魂に話しかける。 特に目に対して。 このことは事実であり、なぜなら私たちが尊敬する師匠は、上品に私たちの好みを高め、芸術的な道に進めていくことに成功した。」
カレムと医者たち
カレムは常に衛生について多くの注意をはらっていたが、当時の作業の描写によると、彼の方針はあまり守られていなかったようだ。 カレムはまた食物が私たちの体に与える影響にも関心があった。 アウラニエ医師の食物時点を注意深く読み、おそらく、イギリスの皇太子の館で働いていた時、この本からヒントを得ていた。 カレムはこの医師に多くの質問をした。 衛生、さまざまな体質、年齢、社会的地位に対応した食事療法、仕事、休息、睡眠、夜更かしなどについて尋ねた。 皇太子の食習慣を分析した結果、友人の医師に次のように語っている。
「刺激物、香辛料の多い煮込みなどを取りすぎて、皇太子の健康は、日々悪化していた。 これを自分は変えるつもりであると皇太子に伝えた。 インドのスパイス、生姜、こし汁、はなはだしいソース、野禽の肉などの代わりに、春野菜のポタージュ、甘味のあるもの、新鮮でやわらかい野菜、変化があり、食欲をそそるものなどを導入した。 このようにして2ヶ月後、皇太子は再生したように感じた。 つらい悪夢をみることがなくなり、より明るく、はつらつとして、若返ったように感じたと言っている。」
毎朝カレムは皇太子の住んでいる部屋に呼ばれ、カレムはメニューについて解説し、各料理の危険性、長所を説明した。 皇太子はこの時間を好み、時にはこの会話は1時間も続いた。 カレムはこれほどまで食事の内容を変えさせ、彼が働いた期間には、皇太子は慢性の痛風に悩まされることはなかった。
カレムは、また健康に良い薬効のスープも実践した。 この点について次のように書いている。
「今の時代は、私たちの受ける衝撃は激しく、精神的にも肉体的にも、すぐにその影響を受けやすい。 そのため健康状態を保つための薬効スープが必要になった。 そこで、すぐれた医師から学んだ、いくつかのレシペがあります。 しかし、それぞれの医者がその様式をもっているように、この薬効のスープのレシペは絶え間なく変化するもので、私の同業者は、私のレシペよりは、自分の雇い主がかかっている医師の処方箋に従うべきです。 しかしながら、私の例は、料理としての応用として必要なものです、医師は必ずしも処方箋で、そこまで指示を出さないからです。」
カレムは医師たちに敬意を持っていましたが、時には専門知識がないのに、フランス料理の古典的な準備方法を批判する医師をだ、糾弾した。 以下はスペイン風の黄色のルーについて、「健康の料理人」という著作があるジュルダン=ルコワント医師の悪口を言っている部分です。
「私は、なぜジュルダン=ルコワント、悪い医師であると同時に、おそらく悪い料理人、この人物、その他とに続く盗作者たちが、ソースのためのルーについて驚いたのかが理解できない。 これらの無知のものは、この貴重な作法を、扇動的で腐食性があると批判した。 なんというあわれな作家たち、おまえらはうぬぼれで馬鹿者だ。 新鮮なバターと純粋な小麦粉、これを混ぜ合わせ、慎重に木炭の柔らかい火で調理されたものが、どのようにして、健康に有害になるというのか? ルーには偉大なソース用とちっぽけなソース用があり、インクにも、これらの作家によって、常識にはずれて、基礎知識もないのに、芸術と仕事についての幼稚な本を書くために使われてしまうものもある。」
ロック医師は、医療のための植物学、食用植物事典、きのこについてなどの著作があり、カレムの友人で、おそらく晩年の病気の時には、この医師が治療したのだろう。 この医師は、ド=ラ・レニエール、クッシ侯爵とも親しく、またFilles-Saint-Thomas通りで、ブリヤ=サヴァラン家の近くに住んでいた。 カレムが死んだ時、次のように書いている。
「カレムは大公、皇帝、王、王とも言えるヨーロッパのもっとも偉大な財界人の食事をつくった。 このまれな男は、上流社会の幸福と魅力の元であったが、苦痛でうちのめされて死んだ。 中略
私の心の中には、今でもカレムの姿がはっきりとしている。 カレムは活発で、はげしく情熱的で、まれな忍耐力、何があっても動揺しない冷静さなどを持っていた。情熱的に自分の芸術を語り、金持ちの男で、その財産を後期に使うものを賞賛していた。 しかし、成り上がり者で、傲慢で、無礼で、けちで自己中心のものは嘲笑していた。 彼の激しい攻撃、少し棘のある表現などは許したい。 彼は苦しんでいた。 苦痛にかかわらず、カレムは友人と、作家、医師、芸術家たちと会話するのが好きであった。 カレムはブルセ医師とも知り合いになり、世話になっている。 カレムは骨相学にとても関心があり、ゴベールという消化の衛生学という著作のある医師とも親しかった。 この医師は食物事典も出版し、そのレジメがファヨに手伝ってもらっていたというのは、可能性のあることである。 このファヨは、カレムの死後、自分はカレムの秘書であると自分で言っていたのだが、おそらくかけていた共同事業を延長するためでしょう。 しかし、このことで、カレムの著作に疑問を挟むのは間違いである。 すべての作品は一定した調子があり、どの作品も大げさな文体からなり、そこに著者カレムの人物が見えてくる。
2010.07.21
何回もこのニュースで話題にしていますが、2010年はアンジェリック30周年です。
長年のお客様、先輩方、友人、家族に祝ってもらうことができ、つくづくこの仕事を続けて良かったと感じています。
友人の一人から、こんな素敵な詩を贈られましたのでご紹介します。
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お菓子のひとりごと
あなたは知っていますか?
お菓子を作る人の心を
ババロア、シャルロット、モンブラン
あなたの笑顔を思いながら
お菓子の国に誘います
あなたは味わっていますか?
豊かな季節の香りを
ムース オ ショコラ、タルト、マカロン
あなたの心をノックして
お菓子の夢を届けます
あなたは信じていますか?
あなたの確かな幸せを
ヴィニオン、アンジェリック、ディプロマット
あなたの愛する人たちに
お菓子の希望を贈ります
Le murmure du gateau
Connaissez vous
L'esprit du patissier?
Baba au Rhum, chorlotte, montblanc,
En imaginant votre visage
Il guide vers L7univers des gateaux
Goutez vous
Le riche parfum de la saison?
Mousse au chocolat, tarte, macaron
Le patissier tappe ton coeur et
Emporte le reve du gateau
Croyez vous a
Votre precieux bonheur?
Vignon, angelique, diplomate,
Aux amis bien aimes
Le gateau apporte l'espoir
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山崎輝子さんはフランスで活躍される詩人です。
山崎さんは最初のキャリアを新聞記者としてスタートし、現在は詩の創作と同時に日仏各誌にルポライターとして執筆されています。
フランスやイタリアの詩のコンクールで入賞されており、2009年3月にはフランスの中学生用教科書に彼女の作品(「人生は小舟のよう」)が掲載されています。
2010.07.06
ありがたいことに、30周年を迎えたアンジェリックにまた取材を頂きました。
“Metiers Paris”(「パリ職人会議所」)というフランスの雑誌です。
日仏両方のメディアに取り上げていただき、私の夢である、日仏をお菓子の仕事でつなぐことが少し実現できているのかな・・・、と嬉しく感じています。
日本も夏休みですね。
パリにおいでになることがあれば、Vignon通りのAngeliqueにぜひ、お立ち寄りください。
↓以下、記事の和訳です。
フレデリック・チバ 「日本とフランスの絆を作ること、それが私の目的です。」
若くしてシャルル・プルースト杯金賞、パリ市杯を受賞し、、フランス料理アカデミー会員である、フレデリック・チバは今年、自身の経営する、サロン・ド・テ「アンジェリック・チバ」の
30周年を迎えました。
日本生まれの偉大なパティシエであり、また同時に、フランス美食術の才能溢れる千葉氏にお話を伺いました。
「パリの職業」 フレデリック・チバ 「パリの職業」 フレデリック・チバ 「パリの職業」 フレデリック・チバ 「パリの職業」 フレデリック・チバ フレデリック・チバ
フランスで菓子職人になられるきっかけはどのようなことだったのでしょうか?
日本の東京で、私の父はパンと菓子を作る職人でした。 フランスのバカロレアに当たる 高校を卒業したときに、父と同じ仕事を選んだわけです。
1968年に、19歳で、世界の最高峰であるフランス菓子を学ぶためにパリにきました。
とにかくフランスで勉強がしたかったのです。 しかしながら、当時は、フランス語はほとんど話すことができなかったので、何をするにも難しくつらい思いもしました。
しかしながら、父の友人の応援があり、パリ15区のヴォージラール通りにある有名なお店で修行を始めることができました。 厳しいお店でしたが、おかげで多くのことを学ぶことが
できました。 次に、サン・ドミニック通りにあるミエという有名店に移り、そこでもたくさんの技術を身に付けました。 そして、この仕事を学びつづけていくために、
コンクールにも挑戦するようになりました。 コンクールでの評価は、修行を続ける上で私に情熱とエネルギーを与えてくれたのです。
修行を始めたばかりなのに、あなたは既に多くの経験を積まれたように思えますが。
飴細工の技術を学ぶため、個人レッスンを受けました。 また、ル・ノートルの製菓学校にも通いました。 とにかく、早く仕事を身に付けることを考えていました。
一通りの修行を終え、ホテル・リュテシアで菓子部門のスーシェフ(副部長)として働きました。 その後、一流のレストランである、ローランで、デザート部門のシェフの仕事をしました。
短期間でこれだけ多くのことを成されたわけですね。
フランスに来て最初の10年間に、確かに多くのことを学び、30歳になりました。
その翌年の1980年に、このサロン・ド・テをオープンし、今に至ります。
第2次世界大戦前は、ここは画廊だったのですよ。 1945年にサロン・ド・テになりました。 この場所がこの形になって、私は3代目のオーナーになります。
あなたのお店が、他のサロン・ド・テと異なるのはどのような点でしょうか?
いくつかの自信作がありますが、他のお店と同じ味ではいけません。 どこよりも美味しいものを目指しています。 オリジナルなものとして、りんごのマカロン、
ヴィニヨン(レーズンサンドサブレ)、ニュアージュ・ブラン(フルーツとフレッシュチーズのドーム型の菓子)があります。
いつもベストの状態でお出しできるように努めています。
値段がどうあれ、味が悪いと、お客様がリピートしてくださることはないでしょう。
私のお菓子の値段は、他店と比べると少し高いかもしれませんが、それでも手ごろな値段の範囲内だと思っています。
お客様に対するサービスも大事です。
不況の時期に有り、お客様の要望は益々高くなっています。
当然といえば当然ですが、お客様への気配りは大切なことといつも肝に銘じています。
「パリの職業」
どうして30歳で、一流レストランの世界で働くことをやめたのですか?
フランスに来て最初に考えていたのは、職を身に付けて日本に戻ることでした。
こちらで家庭を持ちましたので、それからは、東京で暮らすのもパリで暮らすのも同じと考えるようになりました。
自分の店を持ちたくて、フランスの商業ライセンスの取得をし、いろいろ探して見つけたのがこの物件です。 大きさ、立地などの点で気に入りました。
今では、京都と大阪にも店があります。 私の名前とレシピ、技術で製造されるお菓子を販売しています。
私は仕事を通じて、日本とフランスの絆を創りたかったのです。 どちらの国の人々も甘いものが大好きです。 フランスにおいて、菓子職人の仕事は
重要です。 その技術とイメージを今後も国際レベルで維持していかなくてはなりません。 これは、とても重要なことです。
日本では、手づくりで職人のつくる変わる事のない味と良いセンスが重要と
されています。 私は、この二つをうまく調和させることをいつも考えています。
2010.06.23
パリのアンジェリックではお菓子だけではなく、料理もお出ししています。
料理はホテルでの修業時代に覚えました。
渡仏して4軒目のホテル・リュテシアでは、コックが20名、菓子職人が5名ほどいましたが、忙しくなると手伝いをするので、互いに仕事を覚えたような次第です。
お昼には日替わりで、飲み物とのセットで13ユーロのメニューをご用意しています。
ランチのお客様は90%が女性なんですよ。
人気の魚料理は週に2回は出すようにしています。 金曜日は魚料理に決めています。
写真でご紹介するのは、ソーモンフュメです。
ホワイトアスパラガスにスモークサーモンとソースサバイヨンを合わせ、しっかりと焼きあげたパイでサンドイッチにします。
付け合わせはサラダとレンズ豆で、“Bon appetit!”
2010.06.04
パリは日に日に夏らしくなってきています。
こちらのJournal Japon(日本人会新聞)にAngelique Chibaの30周年を記事として掲載していただきました。
30年私なりに頑張ってきたことを、このように取り上げていただき、心から嬉しく思います。
人に書いていただく文章を読んで、改めて、初めてパリにきた頃を懐かしく思い出したりしています。
↓ 右の画像はクリックすると拡大されます。
日本人会は1958年に創立されました。
フランスに滞在する日本人が快適に生活するための情報提供などの活動を行っています。
日本語教室、フランス語教室、書道教室、テニス教室など、様々な活動を通じた
ネットワークがあります。
2010.05.26
『製菓製パン』5月号に記事が掲載されました。
“パリにオープンして30年”というタイトルで、30周年に際し、取材を受けたものです。
専門誌ですので、一般の方々が目にすることは少ない雑誌かとは思いますが、
私がパリに渡ってから今までの歴史を記事にしていただいています。
チャンスがありましたら、ぜひご一読ください。
2010.05.26
沖縄の入梅のニュースも聞えてきました。
パリはすっかり夏の模様です。
年々春が短くなってきています。
昨日はシャンゼリゼで大きなイベントがありました。
シャンゼリゼ通りを「巨大な農場」に作り変えてしまうというもので、農業への関心を喚起する目的だそうです。
ものすごい人出だったそうなので、私は遠慮しました(笑)
まったくフランス人の考えることは・・・、すごいですね!
ちなみに、夏になるとセーヌ川にビーチが現れます。
さて、夏向きのお菓子第2弾、パッフェグラッセのご紹介です。
写真は手前から、フランボワーズ、パッションフルーツ、キャフェ、ショコラです。
フルーツの自然な酸味や、コーヒーのきりっとした苦味を夏においしく召し上がっていただく冷たいお菓子です。
チョコレートは寒い時期に人気のお菓子ですが、パッフェグラッセに仕立てることで、夏もチョコレート好きのお客様に喜んでいただいています。
フルーツの2品、フランボワーズとパッションフルーツはピューレに生クリームとイタリアンメレンゲを合わせて軽く仕上げています。
キャフェとショコラの強い風味には、クレームアングレーズ(卵黄とミルクを使ったクリーム)をベースに生クリームを合わせていきます。
どちらも中には、リキュールシロップをたっぷりと浸したビスキュイを忍ばせ、風味と食感のアクセントにしています。
2010.05.23
東京もずいぶん気温が上がっているそうですね。
この季節にピッタリのみずみずしい食材を使ったタルトをご紹介します。
パンプルムス(グレープフルーツ)のタルトです。
パイ生地、クレームダマンド、ビスキュイの3種類の生地を重ね、
グレープフルーツをトッピングしてしっかりと焼きこみます。
アーモンドプードルをたっぷりと使ったクレームダマンドが
味に深みを出します。
ビスキュイは日本では、スポンジケーキと呼んだ方がわかりやすいでしょうか?
ビスキュイ生地は予め焼き上げておき、キルシュ(チェリーのリキュール)の
シロップをたっぷりと染み込ませます。
リキュールをたっぷりと使うのがアンジェリック風です。
パイ生地も先に半焼成しておきます。
いつも思うのですが、粉やバターを吟味してしっかり焼きあげた
焼き菓子は本当においしいものです。
このタルトはパンプルムスの酸味と苦味、そして生地の甘さのバランスが大切な
お菓子です。
フレッシュフルーツを使ったお菓子は、鮮度が大切です。
お早めにお召し上がりください!
2010.05.08
母の日のケーキです。
日本の皆様にむけて、5月の第2日曜日にあわせ、
そして、カーネーションをあしらってみました。
いかがでしょうか?
メレンゲを使った軽いチョコレート生地に、チョコレートクリームと
ピンクの色を付けたバタークリームで仕上げています。
金箔と銀箔を使って華やかな飾りつけにしてみました。
素晴らしい母の日をお過ごしください!
2010.04.25
5月の第2日曜日が母の日ですね、日本は。
「日本は」とわざわざ書いたのには理由があります。 というのは、フランスの母の日は
5月の最終日曜日なんですよ。 今年は5月30日ですね。
日本の皆さんで、もしうっかり、母の日のプレゼントを忘れてしまった・・・、
なんていう方があれば、
「今年はフランス風に、5月の最終週にお祝いしよう!」
と、明るく言いわけをしてみてはいかがでしょうか(笑)
フランスではプレゼントはカーネーションという決まりはありませんが、
お母さんに感謝の気持ちを表す贈り物をするのは一緒です。
花を選ぶことが多いですね。
お菓子はハートの形の物が母の日のプレゼントに人気です。